江井島の史跡(講堂寺)

講堂寺 (浄土宗 補陀山 講堂寺)

奈良時代、行基上人の開山
  馬頭観音を本尊とする寺。 今は、西江井観音堂として親しまれています。

講堂寺について

 江井島港のあたりは行基上人が魚住の泊を築いたところと伝えられており昔から栄えていました。 それだけに寺院も多く東寺、中寺、西寺と呼ばれていた大きな寺院を含め七カ寺もありました。 このうちの東寺(講堂寺)は慶長18年(1613)に琳誉上人が江井島から大観町に移して開山したと伝えられる無量光寺のことで、現在は講堂寺観音堂が残されています。
 
 平成20年(2008)に観音堂の修復工事中に1856年に再建した際の年月や工匠などを示す棟札を発見、また観音堂正面に掛けられていた「鰐口」に記載されていた内容から製造年が1669年と判明しました。 さらに、「のちのよを いのる心は こうどうじ ただきよかれときしのした水」と御詠歌が書かれていました。
 
 地元の歴史に詳しい方は「海岸の浸食が激しかったため、1613年に江井島から現在の大観町に移された無量光寺との縁を物語っている」由緒のある寺を地域で大切にしたいと、いつもきれいに整備されています。

ギャラリー

無量光寺 (浄土宗 月浦山 無量光寺)

 山陽電車西新町駅から南へ徒歩約8分のところにあります。 山門は名工・左甚五郎作と伝わる総けやき造りで、空襲で辺り一帯は焼け野原となりましたが、山門は唯一戦火を免れました。
 
 歴史書などでは1613年もしくは1644~1648年頃に海岸浸食を理由に江井島から明石 の寺町に移転したと伝えられます。 しかし、小川龍蔵住職は「実際の移転はもっと前と考えられます。移転を命ぜられた琳誉益公上人の足跡をたどると歴史の裏側が見えます。」と、話されてます。

  『関ヶ原の戦い(1600年)直後、幕府は仏教寺院を統制する諸宗寺院法度を、発布しています。 琳誉上人は1604年、京都・空也寺から明石に入り、大阪冬の陣の前年には役目を終えて戻っています。 小川住職は、本来なら新たな寺の建設はあり得ない場所と指摘し、擁護する浄土宗の寺を利用した徳川側の戦略的意図を読み取ります。 初代明石城主小笠原忠政(忠真)の入城は1617 年であり、それ以前から寺を事実上の軍事拠点として整備していたのではと、語られます。

2013年09月26日スポット